タイで働くお先真っ暗コミュ障の日々

タイで現地採用で働くけど、なんかぜんぜん将来見えないけどあんまり苦労したくないなって思っている人のブログ

感情を強制する形式美について

年末の評価面接で、

「最近朝机に突っ伏していることがあるけれど、他の人が心配するから、朝はシャキッとするように。昼は昼寝してもらっていいけど」

と言われることがあった。

 

驚いた。

 

また、忘年会では若いセールスマンが社長に

「疲れた様子で会社に来てることがあったよね。あれは良くないと思うなぁ。

疲れた様子で会社に来るというのは」

と言っていた。

 

驚いた。

 

会社に来るだけでも偉いのに、

その業務とは関係ない立ち振る舞いまで強制されるとは。

 

こんなことが立て続けにあったものだから、

私は近頃何日も色んな思いを巡らせているのである。

 

感情的な部分では

「こんなに体が辛いのに、そんなことを言って追い打ちをかけてくるなんて酷い。

会社に頑張って来ているだけで褒めて欲しいところなのに。」

というのが私の本心だ。

 

実際に、会社に毎日出社する、ということは私にとって本当に大変なことである。

肉体的にも精神的にも会社で働くということに私の体は合っていないようなのだ。

(だったらフリーランスにでもなれば良いだろう、という批判はちょっと置いといて欲しい。それは分かっている。)

それでもここ数年は飛躍的に成長し、

年間で数回の病欠に留まっている。

 

しかし、当然ながら、その大変さはみな同じでは無いわけだ。

個人差はあるし、大きい。

その人たちにも辛い日はあるだろうがその振れ幅や頻度は恐らく違うだろう。

 

そういった比較的体が丈夫な人たちには

私たちのような体の弱い人間が疲れた様子でいると

 

同情を引いている

だとか

オーバーな・・

だとか

そういう目で見られているのかもしれない。

 

詰まるところ、体の強い人には体の弱い人の気持ちは、かなり意識してくれない限り

分からないのだ。そう考えると、自分の中に落としどころを見つけられる。

 

そういう事って多分私自身も気づいていないだけで色んなところで起こっていて、

 

例えば電車の優先席に座る若者を非難する人は

その若者がどれだけ体(もしくは精神的に)しんどいのか分かっていない可能性があるし、

例えば挨拶が出来ない子供を非難する大人は

その子供が対人恐怖症だったり、極度の吃音であったり、挨拶するタイミングが取れなかったりする動揺を分かっていない可能性があるし

最近聞いた話では、外でヘッドフォンをしている子供のヘッドフォンを無理やり取ってしまう大人がいたが、実はその子供は音に極度に敏感で外のような雑音だらけの場所ではヘッドフォンをしていないと精神的に不安定になってしまう、そういう子だったそうだ。

 

この発展した世の中で、様々な思想や宗教や生き方が絡み合ったこの世界で、

私たちは、

他者の痛みに気づくまではいかなくとも

何か理由があるのかもしれない、と思える程度の想像力は必要なのではないだろうか。

 

きっとこういうことを言う人もいるだろう

この社会のスタンダードに上手くピッチを合わせられない人は

そもそも出てくるな

 

当然そういった人たちにも社会に出る必要があり

夢があったり、生きていかなきゃいけなかったり、幸せになりたかったり

綺麗な景色が見たい。

それに

 

何より言いたいのは

 

じゃぁ人間は何のためにここまで進化してきたのかと。

 

共同体をつくり社会を作り国を作り

色んな物や制度を作って発展してきた。

そんな、強いものだけが生き残れば良い世の中なら

大きな大きな共同体を作り発展してこなくても良かったわけだ。

でも私たち人間は

一元的な、強いとか弱いとかの価値観以外にも

頭の良さや美しさや優しさなどの多元的な価値観を発見し

哲学や芸術や科学など多くの価値を創造してきた。

それっていうのはつまり

平たく言うと

 

それぞれ得意不得意あるけど補い合って生きていった方が

誰かを排除しながら戦い続けるよりも

ずっと生産的でハッピーだよね

って気づけたおかげ

 

だよね。

 

とあまりにもデカい話になってしまったけれど。

 

だったら、私たちがこの先ももっと発展していって、目指す社会っていうのは

みんなそれぞれが自分の弱い部分によって排除を受けることなく暮らしていける社会じゃないか。

 

これ以上もう発展する伸びしろは無いっていう考えもあるけど

 

私はまだまだ、どんな分野もそんな社会に向けて発展してもらわないと困るってそう思うわけだ。

 

 

 

また、今回の事でもう一つ思ったことがある。

それは、日本が形式的な形をあまりにも求めているという点だ。

 

体調悪い人に対して朝はシャキッとするべき

だったり

「調子悪い感じで来るな」と言ったりする

 

つまり

会社員はシャキッとしている形が正しく、それを求めるべきだという考え方が背景にある。

 

これはどうだろう?日本独特なのか世界的な感覚なのか分からないが、

日本で特に顕著なのではないかと思う。

 

そして、そういった、自分の本来の感覚を隠すという不自然な行為、これもこの国の鬱が大量発生する原因なのではないかと感じるわけだ。

 

私は違和感を禁じ得ない。

 

例えば、あるケーキ店に入ったら、店員さんみんながにこやかであれば、

私だって嬉しい。

 

要はそういうことだという事は分かる。

 

しかし、私が「みんながにこやかで嬉しい」理由は

ただ、みんなの「にこやかな顔」そのものが凄く好き

なわけではない。

 

「にこやか」というのは幸せや喜びの感情が表面化した現象であり、

その現象を見ると、間接的に

『みんなが幸せである』という情報を無意識に受け取るから、

嬉しい気分になれるのだ。

 

要は、私はみんなが楽しかったり幸せだったりするから、嬉しくなるのだ。

 

しかし、社会ではその表面化した現象だけを必死になって、かなりの負担を負いながら求める。

 

もしも、恋人が毎日「愛している」と言ってくれるが、本当はお金だけが目当てだったら、それは嘘であり、裏切りだと感じるのではないだろうか?

 

私は、そんな、理想的な状態を表面的にだけ取り繕われたモノには

その労力に見合った価値があるとは到底思えない。

 

本当に必要な努力は、感情に嘘をつかなくとも、理想的な状態になれるように工夫することではないだろうか。